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午後の最後の芝生/村上春樹のあらすじと読書感想文

2011年1月19日 竹内みちまろ

 「午後の最後の芝生」(村上春樹)は、文庫本「中国行きのスロウ・ボート」に掲載されています。とても、心に響く作品でした。

 短編「午後の最後の芝生」は、語り手である30歳前半の「僕」が18歳か19歳のころを回想するという物語でした。「僕」は、「僕自身あの時代から比べてそれほど変っていないんじゃないかとも思う」と書き、すぐ次の段落で、「いや、そんなことはないな」と否定します。「十八か十九のころ」「十四年か十五年前」など、ものごとをあいまいにして語るくせがあるように感じました。

 短編「中国行きのスロウ・ボート」の冒頭でも、最初の中国人に出会ったのが1959年であろうと、1960年であろうと、どちらでもよい、2つの年には違いなんて「まるでない」と言っておきながら、すぐあとで、「一九五九年と一九六〇年を見分けるためには僕はそうとう苦労しなくてはならないだろう」と語ります。つまり、そうとうの苦労をすれば違いを発見することができる、ようするに、1959年と1960年には明確な違いがあると断言しています。

 小説の語り手である30歳を過ぎた「僕」は、混乱している、あるいは、特殊な語り方をする人物であるように感じました。

 「午後の最後の芝生」を読み進むと、「記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている」という文があります。少し離れて、「しかし人間存在を比較的純粋な動機に基くかなり馬鹿げた行為として捉えるなら、何が正しくて何が正しくないかなんてたいした問題ではなくなってくる。そしてそこから記憶が生まれ、小説が生まれる」と語ります。回想の物語というより、現在の「僕」の思念なのですが、人間というものは純粋ゆえにちっぽけな存在であり、人間存在にとっては正義だとか理想だとか社会だとかいうことよりも、個としてのときに馬鹿げた存在でもあるそのもの、つまり、人間存在の現実ということが大きな問題であり、小説は、思念ではなくて、現実から生まれる、ということでしょうか。

 「僕」には、「ちょっとした事情があって、ずっと遠くの街に住んでいた」恋人がいました。そして、その彼女から手紙で別れを告げられていました。「僕」は、何をどうすればよいのかわからなくて、芝刈りのアルバイトへ行きます。

 「午後の最後の芝生」には、そのアルバイトも辞めることになり、最後に芝を刈りに行く様子が、描かれています。

 季節は、「七月の始め」に手紙が届き、梅雨のせいで芝が伸びているので、たぶん8月。「FENのニュース・アナウンサーは奇妙なイントネーションをつけたヴェトナムの地名を連発していた」ころで、ポール・マッカートニーやジム・モリスンが歌っていた曲名が冒頭付近に書かれています。具体的に、19何何年とは書かれていませんが、特定(推定)は可能だと思います。また、日付は「十四日」と特定されます。

 夏の描写があざやかだと思いました。

 「僕」自身も「ほれぼれするような見事な夏だ」と感心しています。空には白い雲が浮かび、太陽がじりじりと肌を焼き、耳のうしろまで真っ黒になります。

 「僕」は、東京の事務所から神奈川の(たぶん)郊外まで車でアルバイトに行くのですが、「都会を離れるにつれて風が涼しくなり、緑が鮮やかになっていった。草いきれと乾いた土の匂いが強くなり、空と雲のさかいめがくっきりとした一本の線になった」と語ります。ガソリンスタンドで給油をしている間、「僕」は草むらに寝ころんで地面に耳をつけます。「遠い波のような音も聞こえ」、さらに、その様子を描写します。「目の前の草の葉の上を」「歩いていた」「小さな」「羽のはえた」「緑色の虫」まで、14年か15年前の記憶であるにもかかわらず、克明に描写していました。

 あまりに克明なので、かえって、14年か15年前に「僕」が見た風景の現実をルポルタージュとして報道しているというよりは、語られる「僕」が見た風景を現在の語り手である「僕」が見た風景として、つまり「記憶」、あるいは、フィクションとして再現していることを印象づけているようにも感じました。

 克明な描写は続きます。

 「僕」が顧客の家に到着してからも、腕時計を見たら「十一時二十分」だったり、「中に入んなよ」と、おそらくはアルコール依存症だと思われる顧客から言われたのが「二時三十五分」だったりと、細かく、かつ、正確に描写されます。

 夏のまぶしさ、炎天下での芝刈り、匂い、色彩、音、時刻などが執拗に描かれたあと、「午後の最後の芝生」のストーリーは、「僕」が顧客の家の中に入ることで展開しました。

「家の中は相変らずしん(注意:「しん」に傍点)としていた。夏の午後の光の洪水の中から突然屋内に入ると、瞼の奥がちくちく痛んだ。家の中には水でといたような淡い闇が漂っていた。何十年も前からそこに住みついてしまっているような感じの闇だ。べつにとくに暗いというわけではなく、淡い闇だった。空気は涼しかった」

 それまでいた夏のまぶしい世界から、一転して、過去の闇が染みついた世界に足を踏み入れます。さらに、「廊下にはいろんな匂いがした。どの匂いも覚えのある匂いだった。時間が作り出す匂いだ。時間が作りだし、そしてまたいつか時間が消し去っていく匂いだ。古い洋服や古い家具や、古い本や、古い生活の匂いだ」と続きます。

 「僕」が迷い込んだ世界は、時間がとまった世界であり、闇が染みついた世界であり、いずれは風化する過去の人間の痕跡がまだ残っている世界であったようです。であった、といいますか、夏の描写と同じで、語り手である「僕」の記憶の中では、(今でも)そうであるようです。

 家の女主人が(たぶん肌身離さずに持っている)鍵をポケットから出して、現在はいない娘の部屋へ「僕」を案内しました。机の上に辞書やノートがあり、消しゴムは片側だけ丸く減っていて、木の壁には「鳥の原色画が五枚と数字だけのカレンダーがかかってい」ます(あまりにも克明!)。

 部屋のカレンダーは「六月」。そこは「六月」で時間がとまった部屋でした。

 女主人が「どう思う?」「彼女(注意:「彼女」に傍点)についてさ」と、不在する娘について、聞きます。「会ったこともないのにわかりませんよ」と言いつつも、「僕」は、女主人に促されたこともあり、「彼女」について想像し、そして、声に出して、語り始めます。

 その声に出して語るという行為を続けることによって、「僕」に変化が起きます。

「彼女(注意:「彼女」に傍点)の存在が少しずつ部屋の中に忍びこんでいるような気がした。彼女(注意:「彼女」に傍点)はぼんやりとした白い影のようだった。顔も手も足も、何もない。光の海が作りだしたほんのちょっとした歪みの中に彼女はいた」

 「僕」は、彼女にボーイフレンドがいたとかどうかと言いますが、「でもそんなことはべつにどうだっていいんです。問題は……彼女がいろんなものになじめないことです。自分の体やら、自分の考えていることやら、自分の求めていることやら、他人が要求していることやら……そんなことにです」と、会ったこともない人間について、確信しているとも思える断定口調で、語ります。語られる内容は、抽象的ではあるのですが、風化してしまった存在であった彼女の存在を感じてから、彼女の存在がかかえている問題の本質に言及しました。

 女主人は、「そうだね」「あんたの言うことはわかるよ」と言います。不在する娘が実際にそのような人物であったのかどうかには言及せずに、「僕」が語った内容については理解できるよ、ということを告げただけです。「僕」は、不在する娘の部屋で、風化した存在を蘇らせたというよりは、「僕」の心の中にある何かを投影し浮かび上がらせ、女主人には、それまでは不在する娘についての具体像を想像していた「僕」が、ここにきて、それからさらに段階を進めて、「僕」の確信に迫る物語を投影したことがわかったのかもしれません。女主人には、「僕」が心の中に何かを持っていることはわかりますが、それが何なのかはもちろんわかりません。しかし、心の中に何かを持っていて、それを語っていることはわかります。なので、「あんたの言うことはわかるよ」と答えた、といいますか、そうとしか答えようがなかったのかもしれないと思いました。

 しかし、「僕にはわからなかった。僕のことばが意味していることはわかった。しかしそれが誰から誰に向けられたものであるかがわからなかった。僕はとても疲れていて、眠りたかった。眠ってしまえば、いろんなことがはっきりするような気がした。しかしいろんなことがはっきりすることで何かが楽になるとは思えなかった」

 その後、女主人と「僕」は、部屋から出ます。家からも出て、庭に回ります。「僕」は、「玄関でテニス・シューズをはいてドアを開けた時には本当にほっとした」と語ります。ある意味で異世界、時間が止まった世界、過去の痕跡が染みついた世界、不在し風化した存在を蘇らせた世界、そして、心の中にあるほんとうの物語が呼び起こされた世界から、夏の光に満ちた現実の世界に戻ってきた「僕」が「ほっとした」という現象が印象的でした。

 ほっとした以上は、「僕」が迷い込んだ世界は、「僕」にとっては居心地の悪い世界。なぜ居心地が悪いのかは、作品の内側で十分な情報が提示されていない、と言いますか、語り手である「僕」の心の中にある不在する何かを見つめるほんとうの物語は何も語られていないのでわかりません。

 女主人はポケットから「十四、五年前の一万円」札を出しました。「僕」は、チップとして受け取りました。

 しかし、「僕」はその一万円札をすぐに使ってしまいました。

 例えば、話が飛んでしまうのですが、不思議の国のアリスなら、アリスがいて、トンネルに飛び込んで不思議の国に迷い込んで、お姉さんのひざの上でアリスが寝ている(ようするに夢落ち)、という構造になっています。プロローグがあって、本編であるアリスの冒険があって、エピローグがある、という構造だと思います。それで、めでたし、めでたしです。

 また、タイムスリップものの映画だと、現在の「僕」がいて、タイムスリップした世界で冒険をして、はっと目覚めたら「僕」は現実世界に戻っていた、というのがあります。「僕」は、どうしたのだろう、そうだ夢を見ていたのだ、夢に違いないと自分を納得させようと思うのですが、ふと、ポケットに指を突っ込んだら、十五年前の一万円札が入っていた(つまり、夢じゃないよ)ということで、めでたし、めでたし、と終わる作品はいくらでもあると思います。

 しかし、「午後の最後の芝生」は、その一万円札を使ってしまいます。ぜんぜん、めでたくありません。

 「十四、五年前の一万円」札をわざわざ小説に登場させておきながら、それを小道具として利用するのではなくて、すぐに小説世界の中で使ってしまっている。しかも、その用途が「コーラ」を買うという何の意味もない使い方。

 なんだか、村上春樹さんは、伝統的に物語や小説の王道といわれていたことの正反対を、わざとやっているような印象を受けました。

 そして、それから「僕」は、別れを告げてきた恋人が手紙に書いてきた内容を思いだします。恋人は、「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけれど」「私は自分が何かを求められているとはどうしても思えないのです」と書いてきていました。

 恋人が手紙に書いてきていた内容を読んだときに、「僕」と恋人は、会えばセックスもするし、一般的な恋人たちがするようなことはみんなしていたようですが、恋人からすれば、あなたは私のことなんかほんとうは好きじゃないんでしょ、あなたは(いい悪いは別にして)自分のことしか考えていないんでしょ(考えられないんでしょ)、あなたはそれが何なのかはわからないけど私には話してくれない何かだけを見つめているんでしょ、ごめんね、あなたといっしょにいることにもうこれ以上は堪えられないの、とでもいうような、恋人の切実な叫びを感じました。

 「僕」は、どういう人なのだろうと思いました。

 例えば、言葉が悪いかもしれませんが、特攻くずれ、むごい戦場からの帰還兵、そして、全共闘崩れ。そういった人たちは、自分からは何も語らないことが多いのかもしれませんが、周りの人々は、この人には何かある、と空気で気がつくと思います。恋人も、「僕」に、それと同じようなものを見たのかなと思いました。

 恋人の言葉を思いだした「僕」は、「僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ、と僕は思う」と語ります。ひどくあいまい、といいますか、抽象的、といいますか、はっきりいって、展開が苦しいです。「僕」自身も、それが苦しい展開であることがわかっているのでしょうか、「最初に機械で芝を刈り、くまででかきあつめ、それから芝刈ばさみできちんと揃える――それだけなんだ。僕にはそれができる。そうするべきだと感じているからだ」と、続けます。苦しい言い訳といいますか、意固地になっているといいますか、頭では自分が言っていることがおかしいとわかっていても、心で、仕方ないじゃないか、こういう生き方しかできないんだから、と言い続けているような姿を感じました。

 しかし、それは、30歳を過ぎた語り手である「僕」だからこそそのように描写をすることができるともいえるわけで、恋人から別れを告げられた18歳か19歳の「僕」には、「そうじゃないか、と僕は声に出して言ってみた」(注意:「そうじゃないか」に傍点)ことしかできませんでした。「返事はなかった」とのこと。

 「僕にはそれができる。そうするべきだと感じているからだ」というのは、「しかし人間存在を比較的純粋な動機に基くかなり馬鹿げた行為として捉えるなら、何が正しくて何が正しくないかなんてたいした問題ではなくなってくる。そしてそこから記憶が生まれ、小説が生まれる」と言う30歳を過ぎた語り手である「僕」からすると、それができるだとか、そうするべきだとかいうことは、「何が正しくて何が正しくないかなんてたいした問題ではなくなってくる」のと同じ次元の現象として、「たいした問題ではなくなってくる」ような気がします。

 しかし、確かに頭で考えれば「たいした問題ではなくなってくる」のだけれどれ、それでもなお……、という、「それでもなお……」というところが、「午後の最後の芝生」を読み終えて一番心に響いてきた現象でした。

 「午後の最後の芝生」のラスト3行を読んで、現在を生きる語り手である「僕」は、「そうじゃないか」と声に出しても誰からも返事がもらえずに、何も起こらずに、誰の助けも借りずに、再び自分から走り始めなければならなかったかつての「僕」を見捨てていない、と感じました。むしろ、そんな「僕」をいとおしく見つめている「まなざし」を感じました。このあたりは、「中国行きのスロウ・ボート」でも同じことを感じました。

 また、「午後の最後の芝生」を読み終えて、村上春樹さんの、現在の現実を描くという姿勢を感じました。

 それは、過去は過去としてあるのですが、その過去を描くことが目的ではなくて、その過去を見つめ、心の中に刻み、そして、その過去を大切にしながらも、それでもなお、現在を生きている「僕」を描いているような気がしました。

 そして、「中国行きのスロウ・ボート」でも感じましたが、結局最後まで、「僕」の本質に迫る物語、「僕」のほんとうの物語は、何も語られずに終わったような気がしました。

 「僕」のほんとうの物語は、何なのだろう。読み終えて、そればかりが気になります。

 本文の中に十分な情報がないので、といいますか、ほとんど何も書かれていないので、勝手に想像してみました。やはり(という言い方はおかしいのですが)、なんらかの喪失感や挫折感、失ってしまった何かにこだわり、とりかえしのつかない何かをそれでもなお見つめている「僕」のうしろ姿を感じました。

 「午後の最後の芝生」には、8月14日の出来事が中心に描かれていますが、8月14日と聞いてすぐに思い浮かぶのは、終戦の日8月15日の前日、だと思いました。「午後の最後の芝生」の語り手は、そして、語り手をとおして語られる「僕」を描く小説家である村上春樹さんは、14年前と15年前をあいまいにしたりするくせがあるので、8月14日は、8月14日であり、同時に、8月15日でもあるのかなと思いました。

 そして、「午後の最後の芝生」で「僕」が訪れた女の子の部屋は6月で時間がとまっていました。6月14日で思いつくのは、終戦の日と同様に、1960年6月15日が日米安全保障条約の自動延長やアイゼンハワー大統領の訪日らを阻止するために全学連などのデモ隊が国会に突入した日であり、貴い命が失われた日である6月15日の前日ということです。

 命は、取り返しがつきません。

 60年安保の時代の潮流は、6月15日までとあととで、何もかもが変わったのだと思います。また、70年安保の時代の潮流ということでは、連合赤軍事件で命が失われました。連合赤軍事件の前とあととでは、何もかもが変わったのだと思います。

 それが何なのかはわかりませんが、「中国行きのスロウ・ボート」の「僕」にも、「午後の最後の芝生」の「僕」にも、そして、そのような「僕」を描いた村上春樹さんの心の中にも、それらに匹敵するような何かがあるのではないかと思いました。

 アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」の原作「納棺夫日記」(青木新門)に、世の中には「詩人」がいると、書かれていました。「詩人」は、「一葉に、物への執着が強くなく、そのくせ力もないくせに人への思いやりや優しさばかりが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しいものに憧れながら、時々異常に生に執着し愛欲や酒に溺れ、言っていることのわりにやっていることは醜く、世に疎まれながら生きていくパターンが多い」そうです。「幸せと言えるような人生も見当たらない」。

 「詩人」を生み出す背景は、死に直面する病気、特攻くずれやむごい戦場からの帰還者、命がけの恋での失恋、思想闘争での挫折など、いろいろあると書いてありました。

「詩人とは、悲しい存在なのである。雨でもなく雪でもない『みぞれ』というものがあるように、覚者でもなく普通人でもない『詩人』というものがある」

 「午後の最後の芝生」は、「僕」が夏のまぶしい光の世界から、時間が止まった世界、存在が風化した世界、へ迷い込む物語。そして、風化した何かを蘇らせる物語だと思いました。

 同時に、

 「午後の最後の芝生」は、自覚できずにそれでもなお本能的に「詩人」であることに気がついていた語られる「僕」である主人公を、「詩人」であることを自覚していてそれでもなお語らずにはおられない語り手である「僕」に語らせ、そんな語り手である「僕」の背中を、やさしく、あるいは、誇らしく、見つめずにはおられない、小説家である村上春樹さんが、自分自身を表現した小説であるように感じました。


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