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映画「博士の愛した数式」のあらすじと感想

2012年3月28日 竹内みちまろ

 映画『博士の愛した数式』を見ました。さわやかな話でしたが、奥が深くて、観終わった後、余韻が広がりました。あらすじと感想を書いておきたいと思います。

 映画『博士の愛した数式』は、数学教師となった「ルート」と呼ばれる青年が教室で、新学期の第1回目の授業を行う場面から始まります。ルートは、なぜ自分がルートと呼ばれるようになったのか、なぜ数学を好きになったのか、なぜ教壇に立つようになったのかを話すことを生徒へ告げました。ふと、生徒から視線を外したルートが窓の外を見渡すと、海が広がっていました。ルートを語り手として回想される、ルート、ルートの母親、博士と呼ばれる老齢の男性、博士の義理の姉の4人の物語が『博士の愛した数式』の本編となります。

 結婚できない男性を愛してルートを生み一人で育てているルートの母親は、紹介所では一番若い家政婦でしたが、キャリアは10年ありました。緑に囲まれた別荘へ自転車で向かい、母屋にいる博士の姉から、離れで暮らしている「義弟のめんどうをみてほしい」と言われます。午前11時から午後7時まで、食事と身の回りの世話をすればよい、義弟の起こしたトラブルは離れの中だけで解決すること、母屋と離れを行き来しないことが条件でした。博士は、交通事故で記憶が80分しかもたないという障害を持っていました。足を引きずり杖を利用している博士の姉は「この足もそのときの事故が原因です」と告げます。博士の記憶は、博士と博士の姉の「2人で興福寺の薪能(たきぎのう)を見に行ったときで終わっています」とのこと。博士にとって、薪能を見に行ったのは常に昨日で、10年前の姉の姿がいつまでも残っているそうです。

 母親の博士の家での家政婦が始まりました。博士の離れには、博士の寝室兼書斎があり、居間の壁には黒板とチョークと黒板消しがありました。姉が毎日、黒板に日付を書き換えていくようです。博士のスーツには「僕の記憶は80分しかもたない」というメモがクリップでとめられていて、毎朝博士は、母へ「あなたの靴のサイズはいくつですか」と尋ねます。母親が食事の好みやアレルギーのあるなしなどを聞いても、「考えている」人間に話しかけるなど失礼じゃないかと怒り始めます。しかし、母親に息子がいることを知ったとたん身を乗り出し、母親が家政婦をしている間は誰が面倒を見ているのだ、家で一人でお腹をすかせたまま待たせるなんてとんでもない、などとむきになり、明日からこの家に連れて来なさいと告げます。こうして、博士、母親、ルートの3人の時間が始まりました。

 印象に残っている場面があります。博士と母親は、ルートが所属する少年野球チームの試合に応援に行きます。子どもたちは監督と話をして、背中に、博士の野球カードコレクションにあった阪神タイガースの往年の名選手たちの番号のゼッケンでつけていました。ルートの背中には「√」。しかし、博士が好きな江夏豊の「28」がありません。母親は、「28は博士のためにとってあるんです」。その夜のことでした。博士は高熱を出して寝込んでしまいます。母親はルートを博士の寝室のソファーに寝かせて、夜通し、看病をします。

 そのときの母親の、博士を見つめる心配そうな目、そして、ソファーのルートを見つめる、やさしいまなざしが心に響きました。母親は、ルートを独りで産んで、ルートと2人で生きてきました。こうやって、父親や誰か別の男性と、ルートと、母親の3人で夜を明かしたことはなかったのだと思います。熱を出して看病するというのは突発的な出来事ですが、普段とは違ったこういったイベントから何かが始まることもあります。とっても、すてきな場面でした。

 博士が起こしたトラブルは母屋には持ち込まないよう指示されていたとはいえ、母親は、家政婦紹介会社にも連絡をせず、博士の家に看病のため3泊しました。博士の姉からクレームが入り、博士の家の家政婦をやめさせられました。

 母親は、次の家政婦先(会計事務所か何かのようです)で働き始めます。そこで、映画の中では一度だけですが、母親の声でナレーションが入ります。母親はエプロンのポケットにメモ帳を携帯し、冷蔵庫の製造番号などを見て、その数字から何かを解明しようとしたりしていました。母親の語りは、博士はいつもこういうときにこう言ったなどと続き、ナレーションの声が母親から博士の声に変わります。博士は、母親に、「勇気を持って、君のかしこい瞳を見開きなさい」と告げていました。

 博士の義姉が、新しい家政婦のいる博士の離れ母親を呼び出し、「義弟はあなたのことを覚えることはできません。私のことは、いっしょう忘れませんけど」などと告げました。母親は、「心で見つめれば、時間は流れない」と答え、博士は「いかん、子どもをいじめてはいかん」と怒りだします。母親は、博士の家の家政婦に復帰しました。

 博士の家で、博士が雑誌の懸賞に入賞したことと、ルートの11歳の誕生日を祝うパーティーが開かれました。姉が戸口まで来て、博士に頼まれたというルートへの誕生日プレゼント(=グローブ)を母親に渡しました。姉は、自身と博士のことを、道を誤った2人、などと呼び、「授かった子どもを産む勇気があったら、2人の道も… 私は罪深い女ですから。すべてはまかせますわ」と母親に告げます。

 教壇に立つルートは、新学期の初回の授業を、「時は流れず… 僕は今も博士といっしょに見た夢を追い続けています」と締めくくりました。ルートが窓の外を見ると、砂浜で、大人になったルートと博士がキャッチボールをしている風景が映されます。かたわらでは、母親と姉が見守っています。日差しがあたたかい日でした。

 『博士の愛した数式』は、感慨深い作品でした。原作小説のテーマだった、姉の恋愛とは違う博士への恋慕についてはあまり描かれていませんでしたが、そのぶん、そこに流れている時間の尊さ、博士がいて、母親がいれ、ルートがいるその場所の美しさが描かれていたような気がします。映画『博士の愛した数式』は登場人物の名前があまり出てきませんでした。主要な4人ですら、博士、ルート、母親、姉という、ひとつの「記号」ですべてを語ってしまうことができます。個人というよりは社会的な立場の中で生きている4人でしたが、過去を追憶している姉にしても、過去は取り返しがつきません。また、未来に何かが起こるということもないでしょう。母親とルートにしても博士と触れ合っていっくうちに、いっしょに暮らす家族が増えるわけではありません。

 博士が「僕の記憶は80分しかもたない」というメモを捨てて「もう失うものは何もない。自然にまかせきって、ひとときを生き抜こうと思う」と告げたように、『博士の愛した数式』の根底に流れていたものは、これからどうなるという未来への期待感ではなく、そして過去でもなく、今、流れているその時間の尊さ、そして、その尊い時間を胸に刻んだルートと母親のうしろ姿なのかもしれないと思いました。


→ 博士の愛した数式/小川洋子あらすじと読書感想文


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