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銀座に生き銀座に死す/白洲正子あらすじと読書感想文

2007年2月4日 竹内みちまろ

 「銀座に生き銀座に死す」をご紹介します。「銀座に生き銀座に死す」は追悼文です。1958年6月の「文芸春秋」に掲載されました。4月に坂本睦子さんが他界しました。周到に準備をしたうえでの自殺でした。追悼文には「昭和文学史の裏面に生きた女」という副題がついていました。

 坂本睦子さんは、いわゆる銀座の女でした。バブルがはじけたのは、みちまろが高校生のころでしょうか。みちまろが物心ついたころには、銀座では「クラブ」という言葉が使われていたと思います。ビール1杯何万円などと言われていました。行ったことがないのでわからないのですが、実際に、それもまんざら誇張ではないほどに、誰にも止められない勢いで、土地代も、チップも、ホステスの日給も、天井知らずであがっていったのだろうと思います。

 坂本睦子さんが生きたころの銀座は、そういったイメージとは別の世界のように感じます。「女給」という言葉が使われていたのだろうと思います。高峰秀子主演の映画「女が階段を上る時」や「放浪記」を見ると、義理と人情が色濃い、どこかなごやかな世界を感じました。「ザ・ラスト・ワルツ―「姫」という酒場」(山口洋子)という本を読むと、高度成長までの銀座は、店にも客にもわきまえが利いていて、大人の世界だったと回想されていました。坂本睦子さんはそんな銀座を生きたのだろうと思います。

 追悼文「銀座に生き銀座に死す」には、坂本睦子さんの生い立ちや成長過程はほとんど書かれていませんでした。一人だけいた弟が戦死して、引き取り手のない孤児のように育ったことだけがわかりました。職業選択の自由などあろうはずがなく、偶然に流れ流されて銀座にやってきたようです。追悼文「銀座に生き銀座に死す」には、「直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎、大岡昇平etc、etc、彼女が辿った道は、さながら昭和の文学史の観を呈する」と書かれていました。存命の作家たちの実名をあげている以上は、書き手の白洲正子さんにはそうとうの覚悟があったのだろうと思いました。

 坂本睦子さんは、いわゆる凄腕の女ではなかったようです。むしろ、何か欠けたところを感じさせたと書かれていました。なげやりで、どん底まで泥酔して、富も名声も求めずに、そんな姿がかえって男たちの心を捉えて、いつのまにか「人間を翻弄する為に生まれついたような魔性の女」にされていった経緯が書かれていました。

 白洲正子さんは、坂本睦子さんのことを、「創造を仕事とする作家たちにとって、己が姿を映す又となき鏡だったに違いない」と回想していました。年を経るにしたがって、さながら古代の巫女のような存在になって、男たちが信じる文学の象徴のような存在になり、それに付随する名声の化身になっていったそうです。白洲正子さんは「凄いといえば、そんなものに化けて、化けさせられて、無言で堪えていたことである」と書いていました。

 白洲正子さんは「世に文士ほど人間くさいものはない。愛人を得ること名声を保つこと、いやその上に先輩をしのぐ程又とない栄光があろうか」と書いていました。先輩をしのぐ栄光は、単なる競争意識というレベルではなくて、文士たちの宿命だと書かれていました。過去を乗り越えることによってしかさらなる創造を生み出すことはできません。昨日の落葉が明日の糧となる自然の法則だと書かれていました。

 文学者たちは、血で血を洗う勢いで、坂本睦子さんを奪い合ったそうです。坂本睦子さんは、奪われるたびに「大地をかきむしって泣き、呪い、恨みは長く尾をひいた」と書かれていました。いっぽうで、「奪われる度毎に、月光の美しさを増して行く」とありました。

 坂本睦子さんは、お風呂に行って、「開けたら万事わかる」と書いてアパートの鍵を送っておいて、足を縛って、湯たんぽまで入れて、十分な量の睡眠薬を飲んだそうです。財布の中には20円しかありませんでしたが、その後出雲大社のお札の裏に6000円あったのが発見されました。

 白洲正子さんは、追悼文のラスト・シーンを、「伝説の女性は、屍からも伝説を生むらしい」という文ではじめていました。坂本睦子さんには2000万円の貯金(1958年当時)があったとか、処女を奪ったのは俺だと名乗り出た男も3、4人いると聞くと書いていました。しかし、白洲正子さんは、そんな世俗的な目で坂本睦子さんを見てはいませんでした。創造に生きる男たちは、欲とか名声とかではなくて、宿命として、坂本睦子さんを奪い合いました。白洲正子さんは、そんな男たちには、まだしも、「愛と苦しみを表現するペンがあった」と書いていました。毎日の生活のなかで降り積もる思いを言葉にして表現する手段を持たなかった坂本睦子さんは、表現できない思いだけを心に溜め込んでいったのかもしれないと思います。白洲正子さんは「酒にはけ口を求めても、言葉らしい言葉にはならぬ。そういう宿酔のオリのようなものがたまって口にも顔にも現わさず、ひたすら堪え忍んでいた所に、彼女だけが持っていたあの魅力、ほのぼのとした陽炎の雰囲気がただよったのではないだろうか」と書いていました。当時の銀座には、ペンを持つ無数の文士たちと、ペンを持たない一人の女がいたのだろうと思いました。白洲正子さんは、ペンを持つ人間の一人として、ペンを持たなかった坂本睦子さんを追悼したのかもしれないと思いました。

 追悼文「銀座に生き銀座に死す」を読み終えて、文学は誰のためにあるのだろうと思いました。「孤立無援の思想」(高橋和己)には、「文学者は百万人の前の隊列の後尾に、何の理由あってかうずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのである」と書かれていました。文学の役割、文学者の役割は、今のみちまろにはわかりません。また、それは、答えがあるような命題ではないのかもしれません。ただ、ペンを持つ者にも、ペンを持たない者にも、それぞれの人生があるのだと思いました。


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