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野火/大岡昇平あらすじと読書感想文

2015年6月1日 竹内みちまろ

野火/大岡昇平のあらすじ

 1944年11月下旬、レイテ島の西岸に上陸して間もなく、小泉兵団村山隊の歩兵・田村一等兵は軽い喀血をした。田村一等兵は以前から結核を患っており、5日分の食料を渡され、山中に開かれた野戦病院へ送られ、3日後、治癒を宣告されて隊に戻った。が、分隊長から「帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか」「肺病やみを、飼っとく余裕はねえ」などと怒鳴られ、病院の前で座り込んででも入れてもらい、それでもダメなら、「死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ」と、6本の小さな芋を手渡され、分隊を追い出された。絶望と共に、生涯の最後の何日かを軍人の命令ではなく、自分自身の思うままに過ごせるという「一種陰性の幸福感」が体の中に溢れた。

 田村一等兵は野戦病院へ向かうため、住民が立ち退いた村を超え、野に出た。正面には1キロ先に林が見えたが、右には湿地が広がり、彼方にレイテ島の火山からなる中央山脈が望めた。田村一等兵は、6キロ先の地点にある野戦病院へ向かうため、林の中の道へ進む。

 林が尽きると河原になっており、早い流れの川の対岸に、黒い煙を出して野火が上がっていた。収穫を終えたトウモロコシの殻を焼く煙なのか、日本兵の発見を味方に知らせるための煙なのかは識別できないにせよ、煙の下に、日本軍の敵となっているフィリピン人がいることは明らかで、田村一等兵は開けた河原に出ることをためらった。川に沿って、林の中の道を進むと、1軒の小屋があり、1人のフィリピン人の男が目を見開いて立っていた。

 住民がことごとく退散している場所だったため、田村一等兵は男を怪しみ、銃を構えた。男は「今日は、旦那」と媚を含んだ声で言い、「You are welcome」と卑屈に笑う。男は「芋をやろうか」「待っててくれ」などと告げ、林の奥へ行き、やがて見えなくなった。

 逃げた男が仲間を連れて戻る前に立ち去る必要があるため、辺りを警戒しながら林の中を進んだ。林が切れると、川の向こうには依然として野火が見え、いつの間にか、2本になっていた。丘の頂上からも一条の煙が上がっていた。丘の煙はおそらく牧草を焼く火と思われるのの、信号である“のろし”にも似ており、田村一等兵は、苛立ち、足を速め、再び林の中に入った。

 林が尽き、広い草原に出ると、そこでも野火を見た。野火の下に人間はおらず、田村一等兵は自分1人のためだけに信号ののろしをあげ続けることは戦略的にあり得ないと判断するも、道で野火が上がっていたため、その道を通ることが出来ず、誰が野火をあげたのかと疑問に思いながら迂回し、朝に出た野戦病院に再び辿り着いた。

 民家を利用した野戦病院は、軍医2名、衛生兵7名が約50名の患者を診ていた。あらゆる物資が不足しており、田村一等兵は、入院を許可されず小屋の周辺にたむろしている8名の中に加わった。

 日が暮れると、小屋では食事の時間になったと見えたが、熱帯潰瘍で片足が膨れ上がった中年の病兵・安田が「どれ、俺達も飯にするか」と立ち上がり、杖を突いて林の奥へ入って行った。安田は煙草の葉を大量に腹に巻いていて、医務室に行って芋と取り換えているとのこと。食料を持っている者はそれぞれが取り出して食べ始めた。夜になり、周りのひそひそ話に耳を傾けながら、田村一等兵は眠りに入り、野火の現像を見た。

 明け方、砲声で目を覚ました。軍医たちは谷間の奥へ駆けて行き、何名かの負傷兵が続いた。田村一等兵は、ひとりで林の中に入り、丘を登った。野戦病院は燃えていた。谷へ下りて負傷兵を助けるどころか、田村一等兵は谷の道を上り始めた。「愚劣な作戦の犠牲となって、一方的な米軍の砲火の前を、虫けらのように逃げ惑う同胞の姿が、私にはこの上なく滑稽に映った。彼等は殺される瞬間にも、誰が自分の殺人者であるかを知らないのである」、「私に彼等と何のかかわりがあろう」などと、笑いを抑えることができなかった。目指す先には、中央山脈の死火山の群れが広がっており、「名状し難いものが私を駆っていた」。行く手には死と惨禍のほかは何もないことは明らかであるものの、「私自身の孤独と絶望を見極めようという、暗い好奇心かも知れなかった」

 丘陵地帯に迷い込み、絶えず砲声を聴くも誰にも会わない何日かが過ぎた。無人の小屋に辿り着き、鶏を捕まえ損ねるも、いたる場所に、カモテ・カホイ(木の芋)と呼ばれる高い茎を持つ芋が生えているのを見つけ、すぐに一本を倒して、芋をかじった。そこはフィリピン人の畑であり、豆もあった。小屋で何日が過ごしたが、火が無く、何でも生で食べたため、下痢が始まった。小屋には夜だけ眠ることにし、昼間は、林の中で横たわった。

 辺りに、十字架を掲げた教会堂と、無人の村を見つけ、教会堂に入る。少年時の憧憬の対象であった十字架にかけられたキリストの像が祭壇にあり、「デ・プロフンディス」(われ深き淵より汝を呼べり)の声を聞き、振り向く(終戦後、日本で「野火」を書いている「私」には、「それは昂奮した時の私自身の声だったのである」と理解することができ、「もし現在私が狂っているとすれば、それはこの時からである」とも)。教会堂を出て、司祭館に入り、台所を物色するも火を起こすためのマッチは見つからず、長椅子に横たわり眠りについた。

 夜、女の歌声で目を覚ました。男と女が司祭館に入ってきた。田村一等兵は音を立てて自身の存在を知らせたあと、2人の前に出て、「マッチをくれ」と告げる。女は「獣の声」で叫び続けた。田村一等兵は怒りを感じ、フィリピン人の女を撃ち殺した。男は逃げて行った。2人がこの家に来た意図を確かめるために見ると、床板の下に塩の入った袋があった。「私が一個の暴兵にすぎないのを、私は納得しなければならなかった」、「これは事故であった。しかし事故なら何故私はこんなに悲しいのか」と疑問しながら、村から逃げ、銃を水底に投げ捨て、恐ろしいほどの孤独を感じながら、林をさまよった。

 林を出ると3人の日本兵に出くわし、田村一等兵が所属していた村山隊がアルベラで全滅したことと、レイテ島の全兵士はパロンポンに集合すべしとの軍令が発せられたことを告げられる。3人の日本兵は「誰も連れてってやるっていったわけじゃねえぜ」「俺達は、ニューギニヤじゃ人肉まで食って、苦労して来た兵隊だ」などと声を合わせて笑うも、田村一等兵が塩を持っていることを知ると仲間に加えた。昼間は林の中で眠り、夕方に起きてパロンポンに向かった。

 パロンポンへ向かい、路傍に倒れた日本兵の数がますます増えていく中、野戦病院で別れた足が悪い安田と若い永松に出くわした。安田は煙草を餌に気の弱い永松を手下のように使っていた。安田たちと話をするうちに、3人から離れ、靴も壊れて裸足になった。

 湿地帯にある「三叉路」で再び3人と合流するも、攻撃に遭い(1945年の1月初め)、混乱の中、田村一等兵は1人になった。木の下に眠り、雨で流されてきた山蛭が田村一等兵の血を吸い、田村一等兵はその山蛭を食べた。

 草や山蛭を食べていたとはいえ、体がもっていたのは塩のおかげであった。塩が尽きたときに事態は重大となり、そのころから、路傍の死体が臀部の肉を失っていることに気が付き、犬かカラスが食ったのだろうと思った。しかし、ある日、あまり硬直の進んでいない死体を見て、その肉を食べたいと思ったとき、誰が死体の尻の肉を食べているのかに気が付いた。

 田村一等兵は、新しい死体を見つけるごとに、誰かに見られていると思い、「躊躇し、延期した」。40を超えていそうな将校の服を来た軍人は「俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」と上膊部を叩いた。将校の死体を窪地に運び、死体の襦袢をめくり、右手で剣を抜いたが、右の手首を左の手が握った。「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむる勿れ」という声が聞こえ、「見ている者がある以上、声ぐらい聞えても、不思議はない」と驚かなかった。声は、「村の会堂で私を呼んだ、あの上ずった巨大な声であった」。「起(た)てよ、いざ起て……」と声は歌い、死体から離れた。「これが私が他者により、動かされ出した初めてである」。

 「万物が私を見ていた」といい、花が「あたし、食べてもいいわよ」と言った。これまで草や木や動物を食べていたが、「それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである」と感じた田村一等兵は、「光る野」の中を、飢えながら駆けて行った。

 他の生き物を食べるのは止めようと決意し、朦朧とする中で、河原で横たわっていると、「田村じゃないか」と永松に声を掛けられる。永松は「しっかしろ。水だ」と水筒を差し出し、雑嚢から「黒い煎餅のようなものを出し、黙って私の口に押し込んだ」。乾いたボール紙の味しかしなかったが、何度も食べるうちに脂肪の味がして、肉であることが分かった。「いいようのない悲しみが、私の心を貫いた」。田村一等兵の質問するまなざしに、永松は、横を向いて「猿の肉さ」と答えた。

 田村一等兵は、「猿」を採って暮らす永松と安田と合流し、今日が2月10日であること知る。田村一等兵は安田に手榴弾を奪われた。永松が裸足の日本兵を狙撃する場面を見て、かつて自分が倒れていた河原へ行くと、食用の見地から不用な、手首や足首などの人間のあらゆる部位が捨ててあるのを見た。「しかし私がそれを見て、何か衝撃を受けたと書けば、誇張になる。人間はどんな異常な状況でも、受け容れることが出来るものである」。

 河原で永松に声を掛けられ、手榴弾を奪われたことを告げた。永松は、安田が自分たちを殺そうとするに違いないから主張。声を出して手榴弾を投げさせて、いったん逃げるといい、「おーい、安田。獲って来たぞ」と声をあげると、手榴弾が飛んできた。破片が、逃げ遅れた田村一等兵の肩から一片の肉をもぎ取り、田村一等兵は地に落ちたその肉の泥を払ってから、すぐに口に入れた。

 永松は安田を見つけ出し、撃ち殺した。永松はすばやく、蛮刀で安田の手首と足首を打ち落とした。「怖しいのは、すべてこれ等の細目を、私が予期していたことであった」。田村一等兵は、安田の体を前にして吐き、「もし人間がその飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない」と怒りを感じた。

「そしてもし、この時、私が吐き怒ることが出来るとすれば、私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなければならない」

 「自然を超えた力に導かれて」林の中を掛け、銃を手にした田村一等兵は、永松に銃を向けた。「この時私が彼を撃ったかどうか、記憶が欠けている」

 山中でゲリラに捉えられ、米国の病院に運ばれた田村一等兵は日本に帰された。6年後、東京郊外の精神病院の一室で「これを書いている」。「人々は私を狂人と」みなし、「私の手記」を読んだ医師は、「あなたは今でも自分が天使だと信じていられますか」などと言った。

「しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間共を懲すつもりで、実は彼等を食べたかったのかも知れなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあたかも知れなかった」

野火/大岡昇平の読書感想文

 「野火」は読み終えて、色々なことを考えましたが、今回は「私」というものについて、感想を書いてみたいと思います。

 田村一等兵は、少年の頃はキリスト者としての信仰を持っており、従軍していた当時も、時代背景のために口に出すことははばかられていたことは予想できますが、信仰は持っていました。

 そんな田村一等兵は、永松を撃ち殺したのだろうと思います。が、永松を撃ち殺した動機は、個人としての永松への憎しみでも、同じ日本兵を殺すという行為への憎しみでもなく、人殺しという行為や殺人者への憎しみでもないと思いました。

 田村一等兵は怒りを感じていました。その場面では、「もし人間がその飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない」と書かれています。田村一等兵がレイテ島で目の当たりにした世界では、実際に飢えの果てに人間が互いに食い合っていたのですが、飢えの果てに互いに食い合うという行為そのものではなく、人間が飢えの果てに互いに食い合うという現象や、もっといえば、人間存在の運命とでもいうべきものに怒りを感じたのではないかと思います。

 また、「もし、この時、私が吐き怒ることが出来るとすれば、私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなければならぬ」ともあります。田村一等兵は、実際に吐き、怒りを感じました。あとは、怒りを行動に移すだけですし、実際に永松を撃ったのだと思いますが、この場面では、田村一等兵の行動の動機は、怒りというよりも、「しなければならぬ」とあるように、ある種の“ミッション(使命感)”のようなものだと思います。天罰という発想や、誰も見ていなくても天が見ているという発想は日本にもありましたが、「神の怒りを代行しなければならぬ」という発想はキリスト者のものかもしれません。

 ただ、「天使」ではなく、田村一等兵という人間が何を感じ、何に恐怖したのかを知りたいと思いました。

 そんなことを思いながら、読み進めると、「野火」は、田村一等兵の記憶が途絶えたあと、6年後に手記を書いている語り手の姿が最後の3つの章(「37 狂人日記」「38 再び野火に」「39 死者の書」)にて記されていました。

 読み終えて、「野火」はこの3つの章があるから名作なのだと思いました。

 精神病院に入院する「私」は、6年前を振り返ります。教会堂で聞こえた声が、自分の声であることに気がつくほどの冷静さを持っていますが、極限状態に置かれた日々の記憶を呼び起こすうちに、極限状態に置かれていた「私」と対峙していきます。「たしかに私、田村一等兵である」「それでは今その私を見ている私は何だろう……やはり私である」などとあり、「神を苦しめている人間共を、懲しめに行くのだ」と強がりながらも、「しかしもし私が天使ならば、何故私はこう悲しいのであろう」と疑問します。

 語り手である「私」は、失われた記憶をたぐり寄せ、「忘却の間」に、極限状態に置かれていた「私」が野火の煙の下まで行ったことに辿り着きます。

「しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間共を懲すつもりで、実は彼等を食べたかったのかも知れなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかも知れなかった」

 語り手である「私」は、「殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果である」と、極限状態に冷静に折り合いをつけた上で、極限状態に置かれた「私」の意志や願望というものを突き詰めており、「野火」には、人間というものが描かれていると思いました。

 また、信仰という観点から書くと、教会堂で心に何の変化も起こらなかったことを振り返っていた上で、「私」の心の追及の後に、それでも「神に栄えあれ」と結んでいましたので、理屈では説明することのできない説得力を感じました。


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