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李陵/中島敦のあらすじと読書感想文

2013年7月19日 竹内みちまろ

李陵のあらすじ

 漢帝国が成立して4代目の武帝の時代、秦の始皇帝が歴史書を焼いてから時代も過ぎ、ようやく歴史官たちが活躍を始めたころ、しかし、漢は、たびたび領土に侵入してくる遊牧騎馬民族の匈奴に悩まされていました。

 天漢2年(前99年)9月、騎都尉(きとい・軍事・警察を司る官)の李陵(りりょう)は、5千の歩兵を率いて、辺境の要塞を出ました。アルタイ山脈の東南の端からゴビ砂漠が始まろうとする辺りの荒野を北上します。武帝から匈奴攻撃を命じられたのですが、李陵は、当初は兵站確保を任務とするよう告げられます。が、武門の出で武名も高い李陵は自ら攻撃軍を志願していました。しかし、若い李陵の下につくことを潔しとしなかった別の老将軍の讒言に遭い、騎馬隊を主力とする数万・10万の匈奴軍へ自ら出向いて戦う羽目に陥っていました。武帝の激昂しやすい性格をおもんばかると、一戦交えずに逃げ帰ることはできません。李陵へ信頼を寄せる5千の精鋭とはいえ、多勢に無勢の悲壮な行軍でした。

 漢軍の斥候が、夜空に流れ星のように消えて行った明かりを発見しました。李陵は翌日の決戦に備えさせます。夜が明けると、匈奴の騎馬隊の攻撃が始まりました。李陵軍は陣形を整え、強弩や鉾でよく戦い匈奴に損害を与え、猛攻を退けます。しかし、匈奴は李陵軍を大軍で取り囲み、李陵軍が撤退を始めると矢を射かけ、陣形を整えると、遠巻きにして漢軍の移動開始を辛抱強く待ちました。やがて、李陵軍は力尽き、敵の包囲網を強行突破して漢へ逃げ帰るための最後の攻撃にでます。混戦の中、李陵は敵に生け捕りにされてしまいました。

 匈奴討伐軍の主力も惨敗していた漢の都では、将軍たちの問責が行われていました。李陵にとっては欠席裁判となりますが、そこでの結果次第で、李陵の妻子や一族の運命が決まります。武帝は強大な力を誇る皇帝ではありますが、同時に、多くの欠点を持っていました。武帝の顔色を伺うことしか頭にない者たちは李陵を責めます。李陵に同情を寄せるわずかな者たちは黙して語りませんでした。

 その問責の場に、一人だけ苦々しい顔をした男がいました。天文や国家の記録を司る官・太史令の司馬遷でした。今、李陵を責めている男たちは、数か月前の李陵の出陣の際に盃をあげ、李陵軍健在が伝えられた際には、さすが李広将軍の孫だと孤軍奮闘を称えた者たちでした。そして、武帝が小臣たちのこびへつらいを見破る聡明さを持ちながら、なお真実に耳を傾けることを嫌う様子を不機嫌に感じていました。下級役人でしたが朝議に連なっていた司馬遷は、武帝から問われました。司馬遷は、李陵の孤軍奮闘は称賛に値し、不幸にして敗れはしたがそれ一つだけを取り上げて保身だけを計る君側の官たちが李陵の姿を誇大歪曲する様は遺憾であり、李陵が捕らわれの身となったのも漢のために役立つ機会をうかがうためではないか、などと進言しました。翌日、司馬遷は、男を男でなくする宮刑と決まりました。

 司馬遷は、父の遺志を継いで歴史書「史記」の編纂にあたっていました。武帝の前で進言をした際、司馬遷は死刑もなくはないとは思っていましたが、50歳にして、よもや、宮刑の恥辱を下されようとは思ってもいませんでした。刑を下されて、まず、武帝を恨みました。しかし、しばらくの狂乱の時間が過ぎると、武帝はやはり偉大な皇帝で、大きな欠点を併せ持つことはしかたなく、今度のことはつまり天のなせる災いと思う外ないと考えます。怒りの向け所がなくなると、君側の奸臣が悪いと思いましたが、彼らの悪さは副次的なもので、また、憎んでも何も始まらない小者ばかりで、恨みを向ける価値もありませんでした。最後に残ったのは、自分自身へ怒りを向けることでした。しかし、司馬遷は、李陵を擁護したことは間違ったこととは思えませんでした。その結果、死罪を受けるとしても甘んじて受けていたでしょう。しかし、男性のシンボルを切り取られるということは、死罪とはまた別のこと。司馬遷は混乱し、死の誘惑に駆られることもありましたが、死を思いとどまらせたのは、無意識下にあった「史記」編纂への情熱でした。司馬遷は、「史記」編纂を続けるために、自らを死んだ者と見なしました。そうしないと、生き続けることができなかったからです。太史令の役は免ぜられていましたが、いささか後悔した武帝から、文章や勅書を司る中書令に取り立てられました。編纂に取り掛かってから14年、宮刑を科されてから8年、「史記」130巻が完成しました。

 一方、匈奴に捕らわれの身となった李陵は、李陵の祖父の武名が高く、李陵自身も勇敢に戦ったことから、匈奴の王から客人として大切にもてなされました。王子に射術を教え、友情も芽生えます。妻をめとり、匈奴での生活にも慣れていきます。家を持たず、村を持たない匈奴の生活習慣が理にかなったものであることを発見し、漢は匈奴を野蛮というが漢人と匈奴人のどこに違いがあるのかと問われ、言葉を返すことができませんでした。さらに、匈奴に下っていた漢の李陵とは別の李将軍が匈奴軍を鍛えていたことが、さらなる遠征軍を繰り出し敗走した漢軍によって、李陵が匈奴軍に味方していると間違って伝えられ、李陵の老母や幼い子どもたちは殺されてしまいました。それを聞き知った李陵は武帝に激しい怒りを覚え、また、漢への義理がなくなりました。しかし、かつて自分を信頼して死んでいった5千の兵のことを考えると、漢軍を迎え撃つ匈奴軍に加わることはできませんでした。

 そんな李陵は、匈奴に捕らわれた漢の武将・蘇武に会いました。バイカル湖のほとりで冬は鼠を掘り起こして飢えを凌ぎ、雁に結びつけた手紙によって、19年たってから漢へ帰った人物です。蘇武に会った李陵は、この男はなぜ自ら命を絶たず、何のために生きているのだろうかと自問します。意地のためなら壮絶な意地であり、誰にも知られることなく最後まで運命を全うして一人で死んでいこうという蘇武の心に触れて、李陵は冷や汗が出る思いでした。李陵は匈奴に降伏したことを善しとはいていませんでしたが、やむをえぬではないかと自分に言い聞かせていた面がありました。しかし、蘇武は、どれだけやむをえぬ事態に遭ってもなお、自分自身に、やむをえぬということを許していませんでした。

 李陵が、武帝の崩御を知りました。蘇武に知らせると、蘇武は慟哭しました。李陵は、蘇武の中に、理屈を越えた、純粋な漢の国土への愛があることを初めて発見しました。その後、平和的な捕虜交換で、匈奴を訪問中のかつての同僚から、李陵は漢への帰還を勧められます。李陵は、首を縦に振ることができませんでした。

 漢使が蘇武の生存を伝え、人知れず北方の地に骨を埋めると思われていた蘇武が漢に戻ることになりました。李陵は、「天はやはり見ていたのだ」という思いに打たれます。李陵は、別れの宴を催しました。李陵は言いたことは山ほどありましたがひと言に口にせず、ただ、一遍の詩を読みました。詠んでいる途中、女々しいぞと自分を叱りながらも、声が震え、涙がとまりませんでした。

李陵の読書感想文

 「李陵」を読み終えて、撤退戦の難しさというものを感じました。

 「李陵」にはいろいろな撤退戦が描かれています。まずは、文字通り、5千の兵を率いて匈奴の領地深くまで侵入した漢軍を率いて、数万の敵に囲まれながらも、巧みに戦いながら、漢領への退却を試みた戦いです。李陵は、自らを信じる兵たちを率いて、何度も匈奴軍を跳ね返します。これだけの小勢で侵入してきたのでどこかに強大な後詰めの伏兵がいるのではないかとまで匈奴を慎重にさせながら、じりじりと、後退していきます。匈奴は、いったんは追撃をあきらめて引き返します。が、匈奴に下った漢兵から伏兵がいないことを知り、匈奴軍は引き返して総攻撃をかけました。李陵軍は力尽きて退却します。李陵は、圧倒的戦力の差がついた敵とよく戦い、その奮戦ぶりは、勇を重んじる匈奴では大きな尊敬を招きました。しかし、李陵が撤退戦を行うはめになったのは兵站確保の後方任務では満足できないと自分から攻撃軍への参加を口にしていたことはありますが、老将軍の奸計があったり、匈奴に下った漢兵の裏切りがあったうえのでことでした。戦術や戦略が成功するか否かは、直接戦いに関係のない場所での人間同士の妬みあいや政治力が大きな影響を及ぼすようです。ただ、李陵は、戦地での撤退戦で、勇将の何に恥じぬ戦いを最後まで貫きました。匈奴だけはそれを認め、漢は、勇猛を好む武帝でさえ、奸臣の甘言に惑わされて認めなかったことも印象的です。

 また、戦場ではない場所でも、さまざまな撤退戦が描かれていました。いうなれば、「心の撤退戦」とでもいえるものですが、「史記」編さんに取り掛かるために司馬遷が自らを死んだものとみなしたことも、祖国への愛を貫く蘇武が冬は鼠を掘り起こして飢えをしのいだことも、撤退戦だと思いました。誰に知られ、誰に褒められることでもなく、また出口も援軍もない孤独な戦いですが、それでも、李陵が「天はやはり見ていたのだ」と慄然としたことが印象に残っています。天が見ているという発想は、「恥」や「尊厳」につながります。誰も見ていないからといって盗みをはたらく人間に「恥」や「尊厳」はありません。人からどう思われたいだとか、どうすれば自分の評価が高まるだとかを考えたり、誰かの顔色を見て振る舞うことをせず、純粋な心にのみ従って行動する人間には、「恥」や「尊厳」があると思います。

 そんなことを考えると、李陵はどうして漢へ帰らなかったのだろうと思いました。武将として最後まで勇敢に戦ったことは知れ渡っています。かつての仲間たちも助けてくれようとしてくれています。でも、李陵には、漢の情勢がどうだとか、自分の評価がどうだとか、恩だとか義理だとかということよりも大切なものがあったのだと思いました。それは、李陵自身の心の問題であり、「恥」の問題だと思いました。負けて敵軍に掴まったことについては李陵自身「恥」だとは思っていません。李陵が恥じていたのは、匈奴に捕らわれてなお、匈奴に下ることを潔しとせず、ただひとりひっそりと死ぬ覚悟をして、厳寒の地で暮らす蘇武の何も求めることのない純真さに対してであり、その根底にある祖国への愛に対してだと思いました。李陵は自身の行動について何ら恥じることなく、誰に何を言われようとも逃げ隠れする必要がないのなら、蘇武の生きざまに触れても、恐れを感じる必要なないと思います。何がよくてどうあるべきかという問題では片づけることのできない現象ですが、李陵は、蘇武の中に自分の中にはない純真さを見て、その純真さを美しいと感じたのかもしれません。そして、自分は美しく生きているだろうかと自問してしまったのだと思いました。

 蘇武と別れたあとの李陵には、何年に死んだという記録しかないそうです。その後、李陵がどのような人生を送ったのかはわかりません。しかし、蘇武の生きざまに触れてしまった李陵が、漢へ帰ることを拒んだことは、李陵なりの「恥」に対する「意地」を貫いたことだと思います。蘇武との別れの宴で李陵が詠んだ漢詩は、哀しみに満ちていました。蘇武と別れた後、李陵がどう生きたのかはわかりませんが、李陵は、死ぬまで、心の中で何かと戦いながら生きるという撤退戦を戦い続けたのではないかと思いました。


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