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コーヒーが冷めないうちに/川口俊和のあらすじと読書感想文

2018年7月1日

コーヒーが冷めないうちに/川口俊和のあらすじ

 「コーヒーが冷めないうちに」は、ある喫茶店を舞台に起こる、恋人、夫婦、姉妹、親子がテーマの4話で構成されています。今回はその中から、「夫婦」の話を取り上げてまとめてみました。

 ***

 地下の小さな喫茶店、フニクリフニクラ。

 明治7年にオープンし、140年の歴史を持つこの喫茶店。冷房はないが、不思議と真夏でもひんやり涼しい。

 何年か前、過去に戻れるという噂で雑誌に載って有名になり、連日長蛇の列ができていた。しかし実際に過去に戻った者は皆無に等しいという。

 なぜなら、非常にめんどくさいルールが存在するから。「過去に戻ってどんな努力をしても現実は変わらない」、「戻れるチャンスは一度きり」、「過去に戻っていられるのは、コーヒーが冷めるまでの間だけ」、「コーヒーが冷めるまでに飲み干して帰ってこないと、そのまま幽霊になってしまう」。そして一番の問題は、過去に戻れる席は決まっていて、そこにはいつも白いワンピースの女が座っていること。

 ワンピースの女は、毎日、その席で静かに本を読んでいる。一日に一度だけ、トイレに行くために席を立つ。常連客の房木は、週に2、3度、昼過ぎに現れては、入り口に近いテーブルで旅行雑誌を広げ、ワンピースの女が席を離れるのを待っていた。

 ウエイトレスの時田数が、おかわりを注ぐため、房木のカップをソーサーごと手に取った。いつもなら雑誌を見たままの房木が、今日は不思議そうな顔で数の顔を覗き込んだ。

「新しいバイトの方ですか?」

「ええ、まあ。ここにはよく来られるんですか」と、数は房木に合わせて会話を続けた。房木は、過去に戻るためにこの喫茶店に来ているという。戻って何をするのかと尋ねると、房木はセカンドバッグから古い茶封筒を取り出した。

「妻にこれを。渡しそびれてしまったので」

「では、その渡しそびれた日に戻るおつもりですか? 奥様は今、どちらに?」

「えっと、わかりません。あ、でも、本当にいたんです。妻は。名前は確か、あれ、なんて名前だっけかな?」と言って黙り込んだ。

 カランコロン。

 カウベルが鳴り、高竹という、一人の女性が喫茶店に入ってきた。彼女は近所の総合病院で働く看護師である。「房木さん、今日もここに来てたんですね」と話しかけた高竹に、房木は「どこかでお会いした事、ありましたっけ?」と申し訳なさそうに言った。

 房木は若年性アルツハイマー型認知症を発症し、記憶障害を起こしていた。彼は、妻がいた事は覚えていたが、目の前に立つ高竹が自分の妻であった事は覚えていなかった。

「すみません、最近なんだか物忘れがひどくて。コーヒー、冷めちゃったな」と、さっき取り替えてもらったばかりのコーヒーを飲んで言い、「今日は帰ります」と、喫茶店を出て行った。

 ショックを隠せない高竹は、心配するみんなに、「大丈夫、覚悟はできていたから」となんとか笑顔を見せる。房木の病気については説明してあり、半年前から自分を旧姓で呼ぶようになった房木を混乱させないようにと、みんなにも自分のことを「高竹さん」と呼ばせていた。

「そういえばあの人、過去に戻ってなにをするつもりだったのかしら」

「高竹さんに、渡したい手紙があるって」

「私に?」

 房木は過疎化の進む村で育ち、子供の頃は貧乏で学校にまともに通えず、字を書くのが苦手だった。そんな房木が自分宛に手紙を書いていたとは、信じがたい。

「受け取るべきよ。房木さんがあなた宛に書いたラブレターなら受け取るべきよ」 と、一緒に話を聞いていたもうひとりのウエイトレス、計が言った。

 ちょうど、ワンピースの女は席を立っていて、あの席が空いている。高竹は過去に戻る決心をして、席に座った。

「コーヒーが、冷めないうちに」

 そう言って、数がカップにコーヒーを注ぐと、まわりの景色がゆらゆらとゆがみ始める。めまいのような感覚が無くなったとき、見渡すと店内には誰もいなかった。

 カランコロン。

 入り口から姿を見せたのは、房木だった。「なんだ、ここにいたのか」と、病気になる前のぶっきらぼうな口調で言って、房木は高竹の席から一番遠いカウンター席に座った。

 「なんで、そんなとこに座るの?」と高竹が言うと、房木は「いい年した夫婦が、同じ席になんか座れるかよ、みっともない」と、眉間にしわを寄せ言い捨てた。ぶっきらぼうではあるが、それは照れ隠しである事を、高竹はよく知っている。「そうね、夫婦だもんね」、ニコニコしながら、高竹は同意した。

 今は、どんな言葉もただ懐かしく、幸せだった。しかし、何気なくコーヒーを飲むと、コーヒーはもうぬるい。高竹は慌てて、「あなた、なんか私に渡すものない?」と言って、しまった、と思った。

 結婚して間もない頃、似たような事があった。高竹の誕生日に、房木の用意したプレゼントを偶然見つけた高竹は、嬉しくて仕方がなくなり、当日、「私に渡すものがあるんじゃないの?」と聞いてしまった。房木はしばらく黙って、「別に」と答え、それきりだった。後日、ゴミ箱の中にそのプレゼントはあった。薄紫色のハンカチだった。

 「そうか、そういうことか。未来から来たんだろ」と、房木は立ち上がった。「知ってるんだろ?」と、高竹を責めるように房木は声を大きくした。高竹が無言で小さくうなずくと、それを見て房木は「そっか」と力なくつぶやいた。こんなに落ち込んだ房木を見るのは初めてだった。

 「今のお前は、俺の病気の事、知らなくて……どう伝えていいのかわからなくて」と、房木はバッグから一通の茶封筒を取り出した。手紙は、房木が自分の病気を高竹に知らせようと書いたものだった。

 「やっぱ、忘れちまうのか? 俺は、お前の事」と、房木はうつむきながらつぶやいた。高竹は、房木がこんな表情を見せる事が信じられなかった。

 房木は高竹に、封筒を差し出した。高竹はそれを受け取り、コーヒーを一気に飲みほした。薄れていく意識の中で、「ありがと」と、房木の唇が動くのが見えた。

 気がつくと、目の前に数と計がいる。計が、「手紙は?」と聞いた。手紙を開くと、「おれたちは夫婦だから、夫婦としてつらくなったらわかれればいい。おれの前で、かんごし、である必要はない。きおくを失ってもおれは夫婦でありたいと思うから」と書かれていた。

 高竹がひとしきり泣いた後、トイレからワンピースの女が戻ってきた。「どいて」と低い声で言われると、高竹はあわてて席を立った。ちょうどいいタイミングだった。

 早く帰って房木の顔が見たい。会計を済まし、出口に向かって歩く途中、高竹は「あっ」と言って戻ってきた。「明日から旧姓で呼ぶの、禁止ね」と無邪気な笑顔で手を振って出て行った。

 カランコロン。

 計は、高竹の飲んだコーヒーカップを下げ、ワンピースの女に新しいコーヒーを出し、「今年の夏もお世話になります」とささやいた。

コーヒーが冷めないうちに/川口俊和の読書感想文

 「夫婦」の話は、アルツハイマーの夫を看護師として支えていこうと考えていた妻が、夫の「最後まで夫婦でありたい」という思いを知って、これからも夫婦で居続ける決心をする話です。

 印象的だったのは、夫である房木の無愛想な態度。素直になれず、大切に思う気持ちを伝えられないまま、自分の妻を忘れてしまう。けれど、ずっと何か心に残っているのでしょう、過去に戻るため、喫茶店に通い続けていました。

 夫は妻を想い、「自分を捨てて良いから」と強がりますが、妻はそれでも、本当は最後まで愛されたい夫の気持ちをわかっていて、「忘れられても妻として接する」ことで、夫婦であり続けようとします。ちゃんと大切に思われていたと知り、愛し続ける決心ができたのだろうと思います。

 素直になれない気持ちがリアルで切なく、また愛の深さを感じて心が温かくなる話だったので、今回は、この話を選んでまとめてみました。

 ***

 この他の話でも、主人公たちは、素直な気持ちを伝えられないままに誰かを失い、後悔し、もう一度あの日に戻れたら、と願います。そして時を越え大切な人に会いに行き、コーヒーが冷めるまでという短い間、その人と話す中で、何かが変わります。ルール上、過去に戻っても現実を変えることはできないのだけれど、相手の本当の気持ちを知ることで、自分の行動が変わり、未来が変わっていくという話です。

 過去に戻る、という話は、現実味のないフィクションのようだけど、「できることならもう一度あの日に戻りたい」という思いは、誰もが抱いたことがあるのではないでしょうか。

 面倒なルールをクリアして、やっと一度だけ与えられる、コーヒーが冷めるまでという短い時間。その貴重さを知っているから、過去に戻った登場人物たちは、素直な気持ちを伝えられ、ちゃんと、相手の思いに耳を傾けることができる。

 けれど、その奇跡のような時間は、過去の自分が持っていたもの。そして、その時に生きていた自分であれば、自由に変えることができたもの。

 今という時間、相手という存在も、そばにあって当たり前に思えるほど、どうして大切にできなくなるんだろう。

 もし、自分に与えられたすべての時間を、「コーヒーが冷めるまで」の特別な時間のように、大切に生きることができたなら。大好きな人にきちんと気持ちを伝えることができたなら。

 だって、現実の私たちは、この喫茶店に行くことも、過去に戻ることもできないのだから。

 この本は、フィクションでありながら、同時に、今という一瞬一瞬の大切さに気づかせてくれる本でもあります。

 大切な人になかなか気持ちを伝えられていないと思っている人に、ぜひ読んでいただきたい一冊です。この本の登場人物たちが、きっとあなたの背中を優しく押してくれるはず。 (みゅう https://twitter.com/rekanoshuto13


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