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海と毒薬/遠藤周作:あらすじ&書評『<何が>彼らを殺したか』

2018年1月31日

海と毒薬/遠藤周作のあらすじ

 1945年5月、九州に飛来したB-29が撃墜され8名のアメリカ人捕虜が裁判を経ずして死刑判決を受けたのだが、これを知った九州帝国大学出身の軍医は8名の捕虜を生体解剖の被験体とすることを提案した。「生きたまま解剖する」というこの行為はいうまでもなく被験者を死に至らしめる殺人行為であり、実際にGHQから起訴を受けることになった。 以上は『九州大学生体解剖事件』として知られる事件であり、遠藤周作『海と毒薬』はこの事件を下敷きにしてフィクションとして再構成された小説である。

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 物語は、「私」が東京のとある町へ引っ越してきたところから始まる。

 「私」は気胸のため勝呂(すぐろ)という開業医の治療を受けるのだが、この男がどことなく引きずる影が興味を示し、F市に訪れた際に彼が戦時中の生体解剖事件の当事者であることを悟り、そこで本当の物語の幕が開ける。

 以後、物語はF市の大学病院に勤務する勝呂を主人公として三人称で語られる。

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 助かる見込みのない患者や、病気でなくても空襲で大勢の人間が死んでいくという現実には、悲観的な死生観が蔓延している。そんななかでも大学病院内では教授である橋本と権藤は医学部長の座を巡る抗争を続けている。

 昇進のためには「成果」が必要だった。勝呂が担当する余命幾許もない患者や前部長の姪である田部夫人が、医者の実績稼ぎのための手術の対象となるが、橋本が担当した田部夫人の手術は失敗に終わり、彼女は命を落としてしまう。

 この失敗の事実は関係者のみのものとして他言無用ということではあったが、院内でたちまちその噂は広がり、橋本の昇進は絶望的になる。

 そんななか、名誉挽回の為に持ち上がったのが「アメリカ人捕虜の生体解剖」だった。

一、第一捕虜に対しては血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調査す。
二、第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査す。
三、第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査す。

遠藤周作『海と毒薬』 新潮文庫、p75-76


 被験体となる捕虜の死が明白なこの実験に勝呂と同僚の戸田は参加を要請され、彼ら二人は助手として解剖に立ち合うことになる。

 ここで物語は中断され、ある看護婦(上田)と医学生(戸田)の事件後の手記がふたつ連続する。ここではそれぞれが事件のみならず、彼女・彼それぞれの人生を振り返りながら、自分という人間の人格と事件との接点を探ろうとする、暗く重たい記憶と思考が綴られる。そしてその後、中断された物語が再開され、生体解剖の現場とその直後の様子が描かれる。

 生体解剖の後、病院の屋上で勝呂と戸田は言葉を交わす。流されるままに事件の当事者となり、手術室で目の前の光景を直視すらできなかった勝呂に対して、戸田は言う。

「なにが、苦しいんや。あの捕虜を殺したことか。だがあの捕虜のおかげで何千人の結核患者の療法がわかるとすれば、あれは殺したんやないぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変わるもんやわ」

 そして罰に怯える勝呂に対して戸田は続けて、

「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変わらんぜ」

 と言い放って去っていく。

 そして一人屋上に取り残された勝呂の視線の先には、夜の闇の中で白く輝く海がある。彼はそこから何かを探すように立原道造「雲の祭日」の一節をつぶやこうとするが、彼の乾いた口ではそれができず、「できなかった」という焦燥を残しこの小説は幕を閉じる。

海と毒薬/遠藤周作『<何が>彼らを殺したか』

「みんな死んでいく時代やぜ」相手は葡萄糖を新聞紙に包んで机の中に入れた。「病院で死なん奴は、毎晩、空襲で死ぬんや。おばはん一人、憐れんでいたってどうにもならんね。それよりも肺結核をなおす新方法を考えるべし」

遠藤周作『海と毒薬』 新潮文庫、p30

 第二次世界大戦中の疲弊し切った空気、虚無的な死生観に満ちた本作『海と毒薬』は、『沈黙』『深い河』に並び遠藤周作の代表作として数えられる。

 九州大学生体解剖事件を題材とした本作は、その制作過程により必然的に大きな社会的意味を持つことになり、遠藤周作自身もかなりの思い入れがあったとされており、続編の執筆が予定されていたという。しかし、これは未だ予定のまま遠藤が世を去ってしまった。

 本作を発表した遠藤は実際に事件に参加した人たちから「あなたは我々を裁断し非難した」という批判を受けた。遠藤は「小説家に人間を裁く権利などない」と彼らに返事を書いたが、この「誤解」は遠藤自身が「大変つらい経験だった」と語るように、彼に考えを変えさせる程度に重大な事件であったことは想像に難くない。

 『海と毒薬』について論じられるべき点は複数あるが、ここでは以上の一連の顛末を眺めながら「罪の所在」を主題とおきたい。

 遠藤は本作において、主たる登場人物として二人の医学生(勝呂、戸田)と一人の看護婦(上田)を配置している。彼、彼女らの心中は一人称の書簡や三人称といった形式により描写されるが、特筆すべきはこの三人が「小さな存在」だったということにある。「小さな」という形容は当然ながら「何に対して?」が重要となるが、これは特定の個人でなく「権力」、あるいは「世界」や「社会」といった、漠然とした巨大なシステムだろう。

 医学生、看護婦である「小さな」三人は、このシステムに対しての抵抗をほぼ放棄している。人を殺すことになる生体解剖について勝呂は自身の正義のため嫌悪感を抱きこそはするけれども、自身で決断して参加するのでなく「流されるままに」参加することになってしまう。上田にしろ、システムを自覚している戸田にしろ、誰もシステムそのものについての反抗の意を示していない。時代を支配する虚無的な死生観が、彼や彼女から思考や意思を奪っているような印象さえ受ける。

 遠藤が「小説家に人間を裁く権利などない」と述べた理由は、こうした小説の構成から読み取ることができる。つまり、この物語において「殺人があったという事実」はゆるぎなくあるけれども「その殺人を引き起こす元凶となった悪意」というものが見えない。出世抗争に精を出す橋本と権藤といった二人の教授にしろ、「権力」というシステムの奴隷でしかなかったと考えるならば、その悪意は人間でなくシステムに宿ったと考えることさえできる。

 『海と毒薬』により描かれた事件の複雑さは、「殺人という絶対悪の実在」と「悪意の不在」という錯綜構造により生じている。「罪」とは悪たる事実と悪意が結びつくことにより認められ、そうなってはじめて、「裁き」うるものになる。

 「小説家が人間を裁けない」というのは、この悪の実在と悪意の不在を扱い続けた遠藤周作という作家からすれば当然のことだった。

 夜の闇の中でうごめく海を見ながら勝呂は「罪と罰」を内省するかのように詩を歌おうとする。しかしそれさえも「できない」小さな勝呂の姿を、彼が見つめる巨大な海だけが見ている。

 この象徴的なラストシーンは、小説家たる遠藤自身が戦うべきものを映し出しているかのようである。

【この記事の著者:まちゃひこ】
文芸作品やアニメのレビューを中心に行うフリーライター。文系一直線かとよく勘違いされるが、実は大学院で物理とかを研究していた理系。その他にも創作プロジェクト「大滝瓶太」を主宰し、小説の創作や翻訳を行っている。電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より短篇集『コロニアルタイム』を2017年に発表。
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